カンボジアでパソコンを教えるの巻 vulture0902@yahoo.co.jp


by vulture0902

【ポスト資本主義の断片】

さあ時代の流れは、どこに向かうのだろうか。各人が興味あることだろう。

戦後、物質主義に始まり、資本主義的な構造が反映していく。冷戦構造の敗退から今日、サブカルチャーや個人主義、能力主義に飽き始めた人々は、一生懸命に出口のポスト資本主義を模索する。次はなんのか。グローバルの言葉が持つ、世界感は本当に実現するのだろうか。一部の富む人の影で、圧倒的多数の人々が生活に苦労している。IT化の情報流通と共に、今、よーいドン!で新しい競争が始まった。そんな感慨を私は持っている。そんな感慨は私だけではないだろう。

今、日本でNGOやボランティアに携わる方が増えていると言う。なぜか。偏見と独断を書こうと思う。

昔はどうだったのだろう。今言われる日本の閉そく感は昔から存在したのだろうか。
そもそも戦国時代のほとんど村というコミュニティにいた時を考えれば、幸せだったのだろう。もちろん、いつ盗賊に襲われるか不安だろうし、平均寿命は高くないだろう。年貢だって大変だったと思う。でも、自分達の村(コミュニティ)はある。それは、自分達で管理可能だろうし、なにより個人の総意でなんとか運営されたことだろう。例えば村長は偉いとなるだろうし、農業のうまい人は尊重される。鍛冶屋だって大切だ。それは個人の誇りへと繋がることだったと想像される。具体的には「俺は鍛冶屋だ。俺が居なければ、くわはどうするんだい。」と思っていただろう。それが、日本人が持つ誇りだろうか。

現在はと考えてみる。時代が飛びすぎだけど、とにかく考えてみる。村と都市の違いは、「明るい性格のパン屋の佐藤さん」と「だたパン屋さん」の違いだと、どこかの記事で読んだことがある。都市では、隣の住人の職業も知らないことは珍しくない。多くの人は、ただの他人なのだ。工業化が造り出す、当たり前のような綺麗な町の人間模様は、こんな変化があったのではないか。

私達は内心で、ただの他人ではなく何者かを分かってほしいのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。すれ違う多くの人が他人だなんて、道で声をかけたいし、気軽にあいさつもしたい。そして一生懸命生活すれば、コミュニティに還元できるんだと実感したい。選挙に行った帰り道、日本国というコミニュティを実感できる方は何人いらっしゃるだろう。

さて、ではなぜNGOやボランティアなのだろう。そこには、実感という根源的な感情があるように思う。これほど、金にならない物は無い。実感だから主観的だ。資本主義的にお金に換言できない。ある人にとって意味あることが、他の人から見れば、なんでそんなことに時間を使うのかと疑問になるだろう。そんなあやふやで不確かなものを私達は信じれるだろうか。他人の評価を気にしないで生きられるだろうか。役に立ったと実感できたことが、嬉しくない人もいないだろう。それだけが報酬。言いかえれば、新しい形の給料。ボーナスでフラットテレビの大きい奴を買った時と、老人ホームで「ありがとう」と言われる違い。これは卑怯な例えだろうか。どちらを選択するか、それは個人の自由だ。すくなくとも、私は試してみる価値はあるのだろうと思っている。





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by vulture0902 | 2010-07-01 16:11 | 独話