カンボジアでパソコンを教えるの巻 vulture0902@yahoo.co.jp


by vulture0902

【文明】

朝、起きたら郵便受けに牛乳と新聞が入っていて。

朝食は、ガスコンロでお湯を沸かして、お味噌汁とご飯を食べる。

テレビをつけながら新聞を読んで、クローゼットからスーツを出して、急いで着る。

会社に急いで、出かける。


おお。これが文明か。と、今日気がつきました。




(この町には、牛乳と新聞は流通していない。ガスコンロとテレビは僕の家には無い。クローゼットなんて虫の巣になる。でも、インターネットはあるんだよなぁ。不思議だ。)
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# by vulture0902 | 2010-08-10 00:10 | 寸話

【涼しさ】

Tシャツを着ていても汗が止まらない。雨季だけどスコールの合間の太陽は休まないらしい。カンボジアの太陽は頑張り過ぎだ。教室に着き、窓を開ける。風が肌を通るあの感覚。言葉は無力で、私はあの感覚をとても表現できない。

子供の頃に、真夏の中を駆け回り喉が渇く。が、我慢した後飲む水、その時吹く風。
少し違う。
締め切った部屋の中で、ラーメンを食べる。流れる汗が面白くて、わざと汗を拭わない後の涼しさ。
やはり違う。

本来、感情なんてものは曖昧で、信頼の置けないものだとつくづく思う。差でしか、感知できないセンサーを私達は持っている。証拠に、日本より暑いはずのカンボジアで、涼しさを毎日感じるのだから。

だから今後、私は考え方を変えようと思う。
何かが足りないと不平に思ったら、無い場所に行けばよい。
とても簡単な理論だ。

少なくとも、それは重要なのか、はっきりと分かる。
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# by vulture0902 | 2010-08-05 00:08 | 寸話

【日常】

薄暗いレストランに二人のパソコン生徒がいて、ディスプレイが光っている。
生徒は兄弟で、キーボードを取り合っている。違う違うと兄が、弟に教える近くでは、見知らぬおじさん、おばさんも興味深々だ。こういう普通のカンボジア人に教える瞬間が大好きだ。「私は3人の恋人がいます」とタイプしてくださいと教えたら、みんな笑ってくれた。カンボジア国民性は、いたって明るいのだ。こういう話題、みんな好き。おばさんも。

週末の晩飯の時間に片手間でたまにタイピングを教えている。また近くの学校では、簡易な動画加工の授業も始めた。動画加工はお店を開きやすい。日本人には信じられないが、大きなパラソルとパソコン一台で立派なお店ができる。一日の売り上げもまずまずだろう。生きていけると言う意味で。画像処理ができれば食いっぱぐれはまず無い。携帯の普及率も高いから、携帯電話に関する授業も人気がでるだろう。テキストさえ残してあげれば、誰でも教えられるだろう。今、こんなことカンボジアは求めているのだと思う。お金になる知識。

言うは安し、やるは堅し。



(関係ないけど、志村けんのギャグは世界で受けますよ。)
(日本の踊りで、盆踊りを踊って、志村けん風にしたら、爆笑してた。)

(たぶん、加藤茶の「ちょっとだけよ~。」も受けるはず。)
(天才だなぁ、あの二人は。)
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# by vulture0902 | 2010-07-25 00:34 | 寸話

【じっかん】

カンボジアで5人乗りのセダンに9人の人が乗る、乗り合いタクシーの中、僕は思うのだ。

今頃、日本のある家族はレストランに行くセダンの車の中、10歳の弟はおもちゃのゲームをやりながらお母さんに叱られて、お父さんは渋滞に多少いらつきながら、14歳の姉は窓の外ばかり見ているとしても、それはとても楽しい風景だと。

月曜日の朝、会社に行きたくなくて、このまま海沿いの温泉まで有給を使って旅したいと思ったって、カンボジアの農村では仕事がなくて昼間から酒を飲んでいる奴もいるんだから、それはとても幸福な感情なんだと。

小腹が空いたからコンビニにいけるのは、そもそもコンビニがある証拠。


私達は常に、何かと比べている。

実感できる時なんて、いつも無くした後だ。

今いる世界の価値なんか、本当は誰もしらない。

今、この時、私達は満足なのだろうか。

多分また、時間が経てば分かるだろう。
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# by vulture0902 | 2010-07-19 13:09 | 詩話
さあ時代の流れは、どこに向かうのだろうか。各人が興味あることだろう。

戦後、物質主義に始まり、資本主義的な構造が反映していく。冷戦構造の敗退から今日、サブカルチャーや個人主義、能力主義に飽き始めた人々は、一生懸命に出口のポスト資本主義を模索する。次はなんのか。グローバルの言葉が持つ、世界感は本当に実現するのだろうか。一部の富む人の影で、圧倒的多数の人々が生活に苦労している。IT化の情報流通と共に、今、よーいドン!で新しい競争が始まった。そんな感慨を私は持っている。そんな感慨は私だけではないだろう。

今、日本でNGOやボランティアに携わる方が増えていると言う。なぜか。偏見と独断を書こうと思う。

昔はどうだったのだろう。今言われる日本の閉そく感は昔から存在したのだろうか。
そもそも戦国時代のほとんど村というコミュニティにいた時を考えれば、幸せだったのだろう。もちろん、いつ盗賊に襲われるか不安だろうし、平均寿命は高くないだろう。年貢だって大変だったと思う。でも、自分達の村(コミュニティ)はある。それは、自分達で管理可能だろうし、なにより個人の総意でなんとか運営されたことだろう。例えば村長は偉いとなるだろうし、農業のうまい人は尊重される。鍛冶屋だって大切だ。それは個人の誇りへと繋がることだったと想像される。具体的には「俺は鍛冶屋だ。俺が居なければ、くわはどうするんだい。」と思っていただろう。それが、日本人が持つ誇りだろうか。

現在はと考えてみる。時代が飛びすぎだけど、とにかく考えてみる。村と都市の違いは、「明るい性格のパン屋の佐藤さん」と「だたパン屋さん」の違いだと、どこかの記事で読んだことがある。都市では、隣の住人の職業も知らないことは珍しくない。多くの人は、ただの他人なのだ。工業化が造り出す、当たり前のような綺麗な町の人間模様は、こんな変化があったのではないか。

私達は内心で、ただの他人ではなく何者かを分かってほしいのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。すれ違う多くの人が他人だなんて、道で声をかけたいし、気軽にあいさつもしたい。そして一生懸命生活すれば、コミュニティに還元できるんだと実感したい。選挙に行った帰り道、日本国というコミニュティを実感できる方は何人いらっしゃるだろう。

さて、ではなぜNGOやボランティアなのだろう。そこには、実感という根源的な感情があるように思う。これほど、金にならない物は無い。実感だから主観的だ。資本主義的にお金に換言できない。ある人にとって意味あることが、他の人から見れば、なんでそんなことに時間を使うのかと疑問になるだろう。そんなあやふやで不確かなものを私達は信じれるだろうか。他人の評価を気にしないで生きられるだろうか。役に立ったと実感できたことが、嬉しくない人もいないだろう。それだけが報酬。言いかえれば、新しい形の給料。ボーナスでフラットテレビの大きい奴を買った時と、老人ホームで「ありがとう」と言われる違い。これは卑怯な例えだろうか。どちらを選択するか、それは個人の自由だ。すくなくとも、私は試してみる価値はあるのだろうと思っている。





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# by vulture0902 | 2010-07-01 16:11 | 独話